週刊弐式(ry

今年はみんなに明るいことがあればいいな

logs

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【中国残酷物語】中国、人喰い英雄 (`・ω・´)

【中国残酷物語】中国、人喰い英雄 (`・ω・´)

1 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/25(水) 10:13:19 ID:WqshCg6T0


28 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/30(月) 05:58:39 ID:yzi1xsat0
てか、>>1って下のサイトのコピペなのな
ttp://ameblo.jp/horror/entry-10000274873.html

---------------------------------------------------------

5 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/25(水) 23:56:43 ID:iFfaNNET0
人肉、宿屋や料理屋が客を殺して、その肉を料理にして、次に来た客に出す、

という類の話は、水滸伝の影響か、後の侠義小説や、武侠小説にもよく出てくる。

一応、人肉を食すのは悪だという雰囲気はあるものの、江湖ではよくあることだ、

ってな感じに物語に登場する。

---------------------------------------------------------

9 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/26(木) 01:07:24 ID:xDkkKbNh0
巨匠李逵作黄文炳の炭火焼肉が絶品だろうな。
生きたまま切り取った新鮮お肉をその場で焙り焼き。
李鉄人ならではの野趣溢れるこだわりを感じます。
おまけに肝吸いも付いてますよ。

---------------------------------------------------------

10 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/27(金) 00:20:57 ID:X6f4Dp+60
隋末の戦乱の時も、名前は忘れたけど、群雄の中に、人肉を好む者がいて、
軍勢を率いて、占領地の住人を殺してはみんなで喰っていたらしい。

---------------------------------------------------------

12 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/27(金) 15:18:52 ID:9CRnPPRU0
三国志でも出てきたな。
ある家に宿泊した劉備に家人が
最高の尊敬と礼を尽くしたもてなしとして
家人の妻の肉を出した話が。
劉備は感激のあまり涙を流して食したという。

---------------------------------------------------------

15 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/27(金) 19:02:50 ID:awptNKO80
五代十国では結構喰われてたらしいね、人肉。
磨り潰して肉団子のスープになったらしい。

---------------------------------------------------------

18 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/28(土) 01:06:00 ID:cnA6Aa8+0
袁紹にケンカ売って負けたそう洪は、食料が尽きたら妾を殺して将兵に食わせたとか。
これで感動する兵ってのも現代人の感覚からは解らんものがあるなぁ。
魏略の鮑出という人の話では、人食いの賊というのが出てくるが、これは飢餓のために
(しかたなく?)徒党を組んだような感じ。
おっかない話だけど、やはり生き残るためには・・・


19 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/28(土) 11:12:02 ID:BavDBui30
まあ、実際飢え死にしそうな状況で、目の前に肉があったら、
人肉だろうが何だろうが、食ってしまうと思うよ。
日本でだって、人肉を食う話はなくもないんだから。

---------------------------------------------------------

21 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/28(土) 22:04:45 ID:k1DQA8Zu0
安史の乱で、人肉部隊というものがあったらしい。
農村から農民を拉致してきて、石臼でミンチにして
兵士達の食料にしていたらしい。

---------------------------------------------------------

23 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/29(日) 01:38:05 ID:53CvZXv40
中国の食人肉風習の判らないところは、飢えをしのぐため生きるために食べるだけでなく
特に飢えてもいない状況で、人肉そのものを楽しんで食べる風習もあるということだ。

前述の劉備の逸話もそうだが、最高のもてなしとして主人が妻の肉をふるまう風習や
人肉屋という商売もあり、そこで売買される人肉にランクづけもされていたということ。
一番美味とされたのは子供の肉、二番目が女の肉、男の肉は不味いので不人気、最も不味く不評なのは年寄りの肉とされた。

また、ある食道楽の皇帝が、あらゆる珍味を食べ尽くし「もっと美味いものはないか」
と家臣に珍味を求めさせたところ、ある日初めて食べる美味な肉を出された。
皇帝は大いに満足し「美味い!これは珍味!して、これは何の肉じゃ?」と訪ねたところ
「これは人肉でございます」と家臣は答えた。皇帝は感嘆し「これこそ珍味である」と褒めたたえた。

他にも、復讐のために憎き相手の肉を食らうことも非常によくあることだった。
民衆を虐げ、悪政をしき、民に怨嗟の声が高まっていた宰相が殺された時
宰相の肉がふるまわれ、その肉を食らわんとして我先にと群集が押しかけたという逸話もある。
中国式復讐法--憎き相手は殺すだけでは飽き足らぬ、殺したうえで肉を食らわねば気が済まぬ。


30 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/30(月) 20:37:56 ID:l3//ypA60
>>23
春秋五覇の斉の桓公がそうですな。管沖のほうも主君におもねった料理人
を批難しているが、「人肉が食いたい」と言っておそらく食っただろう桓公
は批難していない。

---------------------------------------------------------

24 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/29(日) 02:05:37 ID:7wwVhlbE0
中国は処刑方法に「料理」があるのがすごい特徴的だよね。
塩漬けにしたり煮たり焼いたり・・・


25 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/29(日) 12:42:53 ID:26deI4230
一応、人肉を食べるなんて畜生にも劣る最低の行い、
というような道徳観はあったようだけどね。


27 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/29(日) 23:49:19 ID:BoeJeHiL0
史書に誰々が人肉を好んで食べたとかいう話がわざわざ記されるのは
やっぱり当時の人から見てもアブノーマルだったってことかしらん


29 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/30(月) 15:58:19 ID:6MQs6dsM0
>>27
そりゃ、基本的に人肉を食べるのはよくないという道徳観があった。
中国でも、やはり必要に迫られて仕方なくという場合の方が多い。
それでも、他の文化圏に比べると、人肉を食すことへの垣根が低かったように思う。


31 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/31(火) 18:34:30 ID:G+cGI5aq0
三国志を読む限り、三国から晋にかけては人肉食はあまり誉められた行為ではない、あるいはもっと積極的に非難されるべき行為として捉えられてる感じ。
時代によっても違いそう。


34 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/01(水) 13:31:21 ID:KUDJiWhh0
唐の張巡は、奮戦した末に戦死したにもかかわらず篭城中に人肉を兵士が食べたから顕彰していいかどうか議論になった
非常手段でこれなんだから、後代になればなるほど食人はやっぱり悪とされるようになったのでは?


35 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/02(木) 03:13:18 ID:xE+PIBDz0
社会の上層と下層で意識が異なった、ということもあるだろうけどね。
いい例が三国演義の劉備の食人。善玉、理想的儒教君主と描かれた劉備が人肉を
食しても、読者であろう一般庶民からの批難がない。ついでに士大夫というか
一応知識人層からも聞いたことが無いが。
水滸伝でも倒した敵、仇の肉を食うなんて描写は普通にあるし、20世紀に書かれた
反三国志でも馬超が親の仇のカキンの肉を食う場面があった。

---------------------------------------------------------

41 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/02(木) 21:08:32 ID:Z6DimOHr0
清の順治9(1652)年、南に逃げた明の残兵が新会の県城を包囲し、城内が飢餓に見舞われた際、
清の官軍は住民を殺して食糧に当てた。
ある将軍が老婆を食べるために殺そうとしたところが、莫という婦人が老婆の命乞いをした。
将軍は老婆を解放し、かわりに莫婦人を煮て食べた。
李婦人は夫を兵士に連れ去られた。婦人が泣いて懇願することには
「夫にはまだ子供がありません。このままでは血筋が絶えてしまいます。かわりに私を食べて下さい。」
兵士は李婦人を煮て食べ、骨をその夫に与えて埋葬させた。
またある時、周辺数百人の農民が保護を求めて城内へ立ち入ろうとした。
県令は許さなかったが、例の将軍は「城内に入れろ!いざというときは我々の十日分の食糧となる。」
と、彼らを城内に避難させた。
城は八ヶ月に渡って包囲され、一万人もの住人が清の官軍に食べられた。
戦乱が収まった後、将軍が道を歩いていると一人の男が彼を跪いて拝んだ。
訝しがって訊ねる将軍に彼は答えた。
「私の両親も妻も皆あなた様の腹の中で眠っております。彼らには墓がありませぬ
もうじき寒水節だというのに、あなた様の腹を拝まなければ他の何を拝めば
良いのでありましょうか。」
さすがに将軍は恥じ、逃げるようにその場を去ったという。

---------------------------------------------------------

48 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/03(金) 02:57:20 ID:UKrUMjzB0
明の正徳五(1510)年、悪宦官として名高い劉瑾は謀反のかどで
凌遅の刑に処された。以下はそれを見聞した張文麟の記録である。

劉瑾はすでに肉を削がれ始めていた。執刀回数は3357刀、10刀ごとに
息を入れ、一喝して正気に戻す。第1日目は親指から手の甲、胸の左右へと
357刀肉を削ぎ取った。最初の一刀には多少の出血があったが、二刀目からは
出血が無い。恐怖で血が下腹部や脹ら脛に溜まり、削ぎ終わってから胸を開けば
一挙に噴き出すという。夜になり、劉瑾は監獄に護送され、そこでなお二椀の粥を
食べたという。賊のしぶとさ、かくのごとし。
翌日は城内の東に場所が移された。昨日劉が宮中の秘密を暴露したため、今日は
口に胡桃の殻が押し込まれている。劉瑾は十数刀肉を削がれたところで気絶した。
やがて日が昇り、監督官が屍を解体する、と宣言した。劉瑾の被害者たちが
削がれた肉の山に殺到した。その肉で殺された者の冥福を祈るためである。
屍の胸に斧が振り下ろされ、血や肉が数丈も飛び散った・・・

被害者やその遺族たちは劉の肉片を生で食べ、恨みを晴らした、という。

---------------------------------------------------------

52 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/03(金) 13:42:16 ID:D1sg34l30
遊牧民は人食い文化ってあるのかな?


54 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/03(金) 23:45:26 ID:OIBoELB20
>>52
あまり聞かないような気がするね。
虐殺の類はよく聞くのに。


55 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/03(金) 23:50:11 ID:wcWb5i+w0
そりゃ、家畜を食えばすむ話だから。
農耕民族は、収穫期まで待たなくてはいけないし。

---------------------------------------------------------

57 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/04(土) 01:12:59 ID:0Gi+g5aF0
日本人でも飢饉の時は食人はしていたろう?特に江戸時代はよく聞くね。
人間は極限状態なら食人すると思うよ。生き物としての本能だろう。

ただ、中国の食人は極限状態の食人とは違う何かを感じるのだ。


59 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/04(土) 01:36:19 ID:91J3l3N50
>>57
天明の大飢饉の時とかは
親がげっそり垂れ下がった腿の肉を子供に食べさせたり
逆に死んだ子供を他人と交換して食べたりもしたそうな

---------------------------------------------------------

64 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/04(土) 08:44:57 ID:cXdkRXGO0
日本に食人習慣がないと言われているが、
昔から刑死者の肝臓などは、よく当り前のごとく服用薬品として
販売されていたし、海外からミイラを服用薬品として大量に
輸入している。

---------------------------------------------------------

84 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/05(日) 01:45:20 ID:RU/DPKTX0
北宋の末期、女真族の侵入で飢饉に陥った人々は官民問わず人肉を食べ始めた。
范温は義軍を組織して戦ったものの破れ、舟で臨安に逃れた。彼に付き従う兵士達は
人肉の乾し肉を携帯していた。彼らはそれを両脚羊(二本足の羊)と隠語で呼び、
そのうちで若い女の肉は「不羨羊」(羊より美味い)、子供の肉は「和骨爛」
(煮れば骨まで食べられる)と呼ばれた。

元王朝の末期、各地で叛乱が勃発し、食糧難に陥った官軍は人肉食に走った。
最上品は子供の肉、次に女。男の肉は最下層だった。
料理法は様々にあり、大瓶に放り込んで炙り焼きにしたり、網で焼いたり、
さらに趣向を凝らして熱湯をかけてから竹箒で皮をこそげ落とし、肉を切り取って
油炒めにして食べたりなどもした。
特に男の両腿と女の乳房は「想肉」(懐かしの肉)と呼ばれて珍重されていた。
あまりの旨さにまた食べたくなるからである。

---------------------------------------------------------

107 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/13(月) 04:34:59 ID:DjpSDNps0
明代の高級宦官は性器回復の妙薬として人肉や人間の脳を食べた。
かの魏忠賢も死刑囚七人を殺してその脳髄を食べている。

---------------------------------------------------------

111 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/15(水) 03:52:43 ID:e6D1pZJM0
明の末期の崇禎15(1642)年四月、かつて北宋の都として栄えた開封の街が、李自成率いる
反乱軍に包囲された、以後城内の百万もの人間は、貴賎問わず飢餓地獄に叩き落されていくのである。

包囲されて数ヶ月のちの八月下旬にはついに穀物の備蓄が尽き、人々はドブの糸ミミズを掬い上げ、
葱とともに炒めて食った。味は魚に似ていたという。一斤800銭で売られ、のちには三千銭に高騰した。
屋根の上のれんげ草も食料として売られ、最初200銭、後に1100銭。溝の水草も食った。
肥やし用の人糞に湧いた蛆も食い、それが尽きると粘土や馬糞を炒め、無理やり水で飲み下した。
これらが尽きるとついに人間に手を出す。大人数で哀れな一人を追い込んで捕まえて喰らう。
敵の捕虜を切り刻んで城壁からばら撒くと、兵士も民も競って肉片を拾った。
九月はじめになると、身内同士でも喰らいあった。父は子を、夫は妻を、兄は弟を喰らう畜生道。
金持ちは守備兵に財産をすべて没収された挙句、皆殺しにされていた。このころには人肉以外の食料は
完全に尽き、肉をそぎ落とされた白骨が城内に散乱している。ボロをまとい垢まみれ、幽鬼の如く瘠せた
生き残りが、白骨を打ち割り、骨髄までもすすって生きながらえていた。

9月18日、ついに開封の街は陥落した。かつての人口は100万人。戦が始まると新たに城外から2万人逃げ込んできて、
やがて城壁の内部のほとんどが餓死戦死、そして食われた。生きて城外に出られたのは1万人のみだった。
街の中心には明王室の宗室の宮殿があり、兵士や女官が1万人いたが、このうち生き残れたのは200人のみだった。

数ヶ月の篭城戦で、100万人が死に絶えたのである。

---------------------------------------------------------

120 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/15(水) 23:49:29 ID:e6D1pZJM0
五胡十六国時代、胡人が立てた後趙国の二代目王、石虎の話。

石虎は若いころから残酷で、従わない部下は必ず殺した。
城を攻略するや、たとえ降伏したとしても女子供にいたるまで皆殺しにした。
しかし武勇に優れていたため、叔父は彼を高く買っていた。のちに叔父が後趙国を興せたのも、
彼の働きゆえである。
さて叔父が没するや、叔父の子や孫を皆殺しにして二代目皇帝に即位した。しかし即位の儀式の最中に
巨大な灯明台から油が漏れて20人が焼死した。石虎は責任者を腰斬に処した。
石虎の太子、石邃は武勇に優れ、石虎は深く愛していたが彼は残虐無道であった。
彼の趣味は美女に盛装をさせてから首を刎ね、それを盆に載せて客に見せること。
そのあとで遺体を煮込み、客に振舞った。
石邃は国政を父から任されていたため父石虎に重要事項を奏上すれば
「そんなつまらぬことをいちいち言うな!」と鞭打たれ、逆に何も言わなければ
「何故なにも報告せぬ!」と鞭打たれた。このようなことが毎月繰り返され、彼は父を恨んだ。
ついに反乱をたくらむものの露見し、妻子26人ともども父に皆殺しにされた。

石虎は太子の死後、次男と三男に一日交代で国政をまかせた。
石虎は長安と洛陽の宮殿を修築させた。動員された民は40万人。
さらに南の東晋、東の前燕、西の前涼の平定を画策し、西暦342年、全国に「三五動員令」を発布した。
家に男子が三人いれば二人、五人いれば三人を徴用するという非道である。
全国で重用された男は50万以上。この三分の一が溺死や野獣に食われて死んだ。
さらに下った令では「兵士は五人ごとに戦車1両、牛二頭、米十五石を納めよ。守れなければ斬首。
収められない者たちは絶望し、次つぎに街路樹で首を吊った。遠くから見れば木にはいくつモノ巨大な実が
生っているようだった。さすがに無道と悟ったのか、三国の平定は中止された。
しかし洛陽城の工事は続き、完成の暁には全国から無理やり集められた美女が三万人、後宮に住まわされた。

石虎は数少ない胡人であったため、絶対的多数の漢人を恐れていたようだ。
度重なる非道な法は、漢人を弱めるための作であったようだ。
347年、石虎は僧侶の進言を受け、漢人の力を削ぐべく男女16万を挑発し、都の城壁の修理をさせた。
重い泥を運ぶ作業に民は困憊し、死者は数万にも達した。
石虎の次男、石宣は大規模な狩を好んだ。幾万もの勢子を使い、獣を囲んでジリジリ追い詰める。
そして追い込まれた囲みの中の獣を思うままに刺殺する。もし獲物が人垣を破って逃げ出した際、
逃がしたものは爵位があれば一日走り回らされ、無位無官のものは百回鞭打たれた。
山東省や河南省の備蓄は使い果たされ、一万もの士卒が疲れて死んだ。

石虎は、三男の石韜を溺愛していた。位を彼に譲りたがっていたが、兄である石宣は
それが面白くない。石韜は父の愛をいいことに思い上がるばかりだった。
そこで機会をうかがい、寵臣を使って弟を殺害した。事態を聞きつけた石虎はショックのあまり卒倒した。
石宣は弟の葬儀に参列こそしたものの涙一粒流さず、あまつさえ棺を開いてあざ笑った。
石虎は石宣の行いに不信感を持ち、石宣の寵臣を捕らえて白状させた。事態を聞いた石虎は怒り狂い、
石宣を捕らえて下あごに穴を開け、鉄輪を通して繋いだ。彼の絶叫は宮殿に響く。
僧が石虎をいさめたが聞き入れず、処刑を始めた。
石韜の家臣たちが石宣の髪をむしりとり、舌を引き抜く。まだ息のある石宣にはしごを上らせ、
首を吊らせたあげく四肢を切断、目と内臓を引きずりだし、大量の薪とともに焼いた。
燃え上がる炎を、石虎は後宮三千の美女とともに眺めていた。
残った灰は街の街路に捨てられた。

---------------------------------------------------------

石虎の怒りはまだ収まらず、石宣の妻子九人を殺した。末っ子はまだ九歳でかわいい盛りだったので、
さすがの石虎もその子を助命しようとした。しかし大臣たちは成長してから復讐されるのを恐れ、
末っ子を石虎の懐から無理やり引き剥がした。石虎はついに病を得た。
しかし石宣の部下たちへの殺戮は続いた。親衛隊300名、宦官50名は全員車裂き、警護兵50万人は辺境に追放された。
翌年349年石虎は死んだ。幼い末っ子が即位したものの異母兄弟たちが権力をめぐって殺し合い、
最後に残ったのは漢人の養子だった石閔が権力を握った。
しかし時すでに遅く、石氏はじめ胡人と漢人との軋轢は頂点に達していた。
石氏は石閔たち漢人を皆殺しにしようとするが失敗。石閔は城門を開け、
「わしと同じ考えのものは入れ。違う考えのものは出て行け!」と呼ばわった。
たちまち胡人たちは非難をはじめ、城内は漢人で満ちる。期は熟した。
「胡人の首ひとつ持参すれば、文官は三階級昇進、武官は親衛隊にするぞ!」
たちまちのうちに殺戮の嵐となった。一日に四万人もの胡人が斬られた。老若男女、
貴賎問わず皆殺しにされ、20万もの胡人の死体が転がった。さらに地方にも通達がいきわたり、
漢人の役人は担当地の胡人を殺した。髭が濃く顔の掘りが深かったため、間違って殺された漢人も
多かった。
石一族が皆殺しにされたのは言うまでもない。

石閔はこれに飽き足らず、石一族の出身部族である羯族の皆殺しにした。
ひとつの部族が完全に滅亡したのである。石閔は新たに魏国を起こしたが、
無政府状態は治まらない。石虎がかつて強制移住させた数百万人が、勝手に帰り始めたのである。
彼らは道で行き会い、相手が違う部族だと知ると殺しあう。故郷に帰れたのは
そのうちの二、三割のみだった。
さらに華北は大飢饉に襲われ、人々は人肉を喰らいあった。首都の後宮には
かつて石虎に集められた美女三万人がいまだに住んでいたが、彼女たちは飢えた近衛兵たちに
文字通り食われ、骨も残らなかった。

魏国も混乱の中で滅んだが、暴君は後の世にもまたあらわれるのであった。

---------------------------------------------------------

138 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/17(金) 21:30:24 ID:Xehg0Xrw0
匈奴ってやっぱり残虐な人が多かったのかね。
強大な遊牧民が隣にいるってのは、恐怖だろうな。


140 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/18(土) 15:37:17 ID:nNEZeHNY0
匈奴は確かに残虐で戦にも長けていたようだが、何故か人肉食いの話は聞かないなあ。
中国の一般民衆の大半が漢族だから、異民族王朝の支配化でも一般民衆の間では人肉食いは
続いていたと思うが、王族などの支配階級の間ではどうだったのだろう。
漢族の王朝では、支配階級の間での権力闘争で、敵を打ち負かした時にしばしば人肉を食らったり
大衆に分け与えたりすることが行われていたが、異民族王朝の元や清などではあったのだろうか。


205 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/10(火) 07:26:07 ID:21vpNYB60
>>140
おそらくだが、儒教的思想がなかったことが逆に人肉食させなかったんじゃないかな。
儒教って別に孔子がはじめたワケじゃなくてそもそも中華の道徳観の集大成みたいなもん
でしょ。んで、身体を傷つけてはいけない、とされる。
そして死んでも身体の一部が欠損することは許されない。宦官の切ったちんこをちゃんと保
存しておいて死ぬとき一緒に埋葬するとか、首を刎ねられるのはいいけどちゃんと身体と一
緒に埋葬してもらわないとダメとか。

ということは、死後に身体を切り刻まれて食われてしまうってのは最悪の事態であり、とんでも
ない恐怖なわけだ。死ぬだけより怖い。
だから、殺しても飽き足りない憎い相手はバラして食う。もう絶対元に戻らないぐらいバラバラ
にする最良の手段として。
それ繰り返してると「ムカつく奴は殺した後食ったりするのは割と普通、特に恨みもない人を殺
して食うのは普通じゃないし抵抗があるけど、総じて人間を食うという枠で考えると他の民族よ
り抵抗がない」ということになったんじゃないかね。

匈奴は遊牧民で行動範囲が広く定住しないこと、それに遺体を持ち歩くこともできないことを考
えると、じいちゃんが死んだらその場に埋めて、それっきり…って感じだったんだと思う。
平原じゃ目標物もないからじいちゃんが去年死んだときに来た牧草地はここ、ぐらいはわかって
も、その中のどのポイントがじいちゃん埋めた場所だか誰にもわからない。
魂の方は祀ったりするかもしれないけど遺体に執着がないんじゃないかと。
それだと憎い奴は一寸刻みに苦痛を引き延ばして殺すとか嫌な殺し方はするだろうけど、その
後の遺体をどうこうという発想は出てこないから人を食おうとしない、だから人間を食うという枠
で考えても中国人より抵抗がある、となってくるんじゃないかな。

---------------------------------------------------------

148 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/27(月) 12:41:41 ID:fDESg0B00
太平洋戦争中、戦地で飢餓が発生した際に、やむなく人肉を食した人の話を聞いたことがある。
餓死した仲間の肉を食らって生きながらえたそうだ。その時食べた肉の味はザクロの実に似ていたと。
それからその人はザクロを見るたびに、そのことを思い出しては何とも形容し難い気持ちになるという。
彼にとって人肉を食したことは一生消えないトラウマのようになっているようだった。
これが飢餓状態でやむなく人肉を食した者が持つ心なのだと思う。

それが中国史における人肉食いとの違いかな。

---------------------------------------------------------

162 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/30(木) 11:36:13 ID:/m6VO3N60
十字軍はともかく、ヨーロッパも案外・・・
そんなんじゃ十字軍も異教徒を笑えないのでは?

人間の肉は客観的に考えて
そのまんま食べるには決して美味とはいえないんじゃないか?
牛や鶏みたいに炭火で焼いただけで美味いということはなさそうな。
少し前に中国人の批評で年齢や性別によって肉の味に差があると書いてあったよ。
中華料理の食材として調理するそうだ。味が良くなるのも中華料理の成せる業か。


163 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/30(木) 13:26:21 ID:qmT2Dms50
基本的に肉食動物や雑食動物の肉は臭みが強いから、
人間の肉も臭みが強いはず。
筋肉もあまりないだろうし、あまり美味しい肉ではないと思われる。

ただ、肉は肉だし、腹を空かしている時に食べたら美味いだろう。

---------------------------------------------------------

169 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/12/09(土) 23:49:20 ID:iSmBvW6e0
拷問方法なんかは、酷吏が自分達で考えたという話しになっていたかと。
刑罰の場合、殆どのものは法に明文化されていた筈。

刑罰ってのは、大抵はその土地(地域)の宗教(死生観)にも影響されているわけで、支那の場合だと現世の肉体とあの世の生活が繋がっている。
だから、死者に鞭打つ事や遺体を損壊させるという事は、その死者のあの世での生活を破壊するのと同じ事になる。
死者を喰らうという事は、肉→人糞→豚の餌→豚の糞→豚の餌→豚の糞・・・という「あの世」が延々と続く事になるわけ。
だから、彼の地では五体満足な死が最も尊ばれ、斬られた場合でも切られた部分を繋ぎ合わせてから埋葬しようとする。

こういったものは古代では世界各地に見られたようで、エジプトのピラミッドの中のミイラなんかでも埋葬後に破壊破損されたのがあったりする。


175 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/12/14(木) 21:08:12 ID:5/GCnkH+0
>>169
中国人は現代でも「副葬品」付きの葬式なんだよね。
紙銭なんかを墓前で燃やすのは、あの世の生活で使ってもらうお金。
(日本の「三途の川の渡し賃」とは違う。)
紙製の家や車、テレビなんかも墓前で燃やす。
もちろん、あの世で住んで使ってもらう為。

こう考えると、称号や帝号の追贈なんかもあの世でそういう地位に就くって考えなんだろうね。
「死んでから帝位貰ったってしゃーねーじゃん。」と現代日本人ならば、そんな風に思うだろう。
でも、あちらはちと違うみたいだね。
儒教が「支配者にとって都合が良い」のは、この世の生活とあの世の生活が繋がっているから、でもあるんだろうね。

---------------------------------------------------------

197 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/02/05(月) 11:27:27 ID:NY+TuSrh0
中国で人肉食といえば思い浮かべるのが易牙だ
こいつ斉の王様に気に入られるために自分の子供を
殺して料理したという逸話がものすごく嫌だ
しかもそれで気に入られた後は宦官達と一緒に
国政をやりたい放題、国民は苦労し
自分をここまでしてくれた王様も
衰えが見えると幽閉し、死んでも埋葬すら許さず
蛆がたかるまで放置していた。
さらに、隣国に攻められるとあっさり逃げだし
魯の国に亡命、料理人としてなんの咎めも受けず幸せな余生を送ったらしい

こいつが許せんのが彼は料理人の腕前としては最高だったらしく
中華料理のいくつかがこいつのアイデアで、
中華料理界からは今でも料理の神様として崇められている事

---------------------------------------------------------

あとがき
確かに日本だと「薬」としての話の方をよく聞くね。
死後の世界に対する認識が要因として考えられるっていうのは知らなかったので
勉強になった。
文化の違いと言うのはやはり大きいな。

---------------------------------------------------------
スポンサーサイト

トラックバックURL

http://occult.blog62.fc2.com/tb.php/227-e252f210

この記事へのトラックバック

この記事へのコメント

コメント投稿フォーム

Paging Navigation

Navigations, etc.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。